縁のしるし

「また会いたい」を、川に重ねた一首

岩に分かれた流れを、下流まで目で追う。「瀬をはやみ」の一首に、もう一度会いたい人を重ねて。

文・紗月 / 出典確認:

たとえば、一緒に歩いた道の分かれ目。「またね」と手を振った人が、角を曲がって見えなくなる。隣にいたときは普通に話せたのに、ひとりになると、もう少し一緒にいたかったと思う。帰り道の途中で、おもしろい看板を見つける。これもあの人に見せたかった。会いたい気持ちは、そんな何気ないところで増えていきます。

次に会えたら、続きを話したい。けれど、その「次」がいつなのかは、まだわからない。古い恋の歌にも、別れたあとの時間を見つめる一首があります。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

『詞花集』巻七「恋上」二二九番歌。崇徳院の一首です。

川の流れが速く、岩に阻まれて水が分かれても、その先ではまた合わさる。そのように、たとえあなたと離れても、いつかきっと会おうと思う。本誌では、歌の意味をこう言い換えます。

岩の向こうにも、水は流れる

「瀬」は川の浅いところや、流れの急なところをいう言葉。「瀬をはやみ」は、その流れが速いので、という意味です。「滝川」も、勢いよく流れる川を指します。まず見えてくるのは、さらさらと穏やかに流れる水よりも、岩へ向かって急いでいく水でしょう。

「岩にせかるる」で、水の行く手に岩が現れます。流れを目で追うと、そこで左右に分かれる。岩のこちら側にいると、二筋の水は離れていくように見えます。でも、歌は「われても」のあとに「末に」と続きます。読む人も、岩の向こうへ目を移すことになる。

「末」には、川の下流と、これから先の時間が重なります。目の前では分かれている水を、その先まで見ようとする。離れている二人にも、これからの時間がある。紗月は、この視線の動きに惹かれます。別れ際の姿ばかり思い出してしまうときに、もう一度会う日の姿まで想像したくなるのです。

一首のはじめには川と岩があり、読み終えるころには会いたい人がいる。「われる」「あふ」という言葉をたどっているうちに、水の景色を恋として読んでいたことに気づきます。相手の名前も、会えない事情も書かれていないのに、そこに自分の思う人を重ねられる。その簡潔さも、この歌のおもしろいところです。

あはむとぞ思ふ

この「あはむ」は、会おう、という意志として読めます。「ぞ」で強めて「思ふ」と結ぶので、歌の終わりには、私はそう思っている、とはっきり言う声が聞こえます。途中の岩も、分かれた流れも知ったうえで、それでも会おうと思う。音読するなら、この終わりを少し強く読んでみたくなります。

歌は「思ふ」で終わります。相手の返事も、再会した日のことも、まだ語られていない。聞こえているのは、会おうとするひとりの声です。紗月は、この結びを残して読みたいと思います。会えると決まった喜びよりも、決まっていない先をこれほど強く願う声に、胸を動かされるから。

いまの恋でも、自分がどれほど会いたいかはわかるのに、相手も同じかどうかはわからないことがあります。だから、自分の願いを声にするだけでもためらう。「会いたい」と言えば、会えない寂しさもいっしょにはっきりしてしまうから。そんな日に読むと、この一首のまっすぐさが眩しく感じられるかもしれません。

まっすぐな言葉を、自分の代わりに誰かが言っている。声に出して読んだときだけ、同じ強さで思える。古い歌を好きになる理由には、そういうこともあると思うのです。

また会えたら、どんなふうに

歌の中では、その先に会う場面まで描かれていません。だから紗月は、読み終えたところで少し想像します。遠くから名前を呼ぶのでしょうか。顔を見たとたん、用意していた言葉を忘れてしまうのでしょうか。あるいは、大げさな挨拶はなく、隣に座って「久しぶり」と笑うだけかもしれません。

いま会いたい人にも、そんな顔を思い浮かべることがあるでしょう。同じものを見て、その場で話したい。お茶が来たらテーブルの本をよけて、相手のカップを置く場所を空ける。別れる時刻を気にせず、話の途中でもう一杯頼む。会うという短い言葉の中には、人それぞれの細かな願いがあります。

想像していると、もう一度、歌の川へ戻りたくなります。初めは二人を隔てる岩が気になったのに、今度は、その向こうへ抜けていく水を目で追っている。「末に」という短い言葉の先に、さっき思い浮かべた顔がある。

また会いたい。古い言葉で読んでみても、思い浮かぶのはよく知ったあの人です。角を曲がる前に振り向いた顔や、話し始めるときの声。川の続きを思い描きながら、もう少しだけ、その人のことを考えていたくなります。

この手紙の出典・読み方

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